スポンサーリンク

1300年以上の歴史!『那須温泉神社~殺生石』を歩いてきた

2018/1/4(金)

お正月に、那須旅行に行った時のお話しです。

那須温泉神社(なすゆぜんじんじゃ)

那須温泉神社

那須温泉神社

開湯以来1300年以上の長い歴史を持ち、那須温泉を見守り続けてきた「那須温泉神社」。

読み方は「なすゆぜんじんじゃ」。 「なすおんせんじんじゃ」ではありません。

創建は第34代舒明天皇(じょめいてんのう)の平安朝、630年頃とされており、那須温泉神社は那須地方に存在する80社の総社。

狩野三郎行広(かりのさぶろうゆきひろ)が弓で射た大白鹿を追っていたところ、温泉に浸かり傷を癒す鹿を発見したのが、那須温泉の始まりだと言われています。
だから、殺生石の直ぐ下にある温泉が「鹿の湯」と呼ばれているんですね。

御拝殿はペット禁止
那須温泉神社

【御祭神】

大己貴命(おおなむちのみこと)
少彦名命(すくなひこなのみこと)
誉田別命(ほんだわけのみこと)

商売繁昌・家内安全・病気平癒・身体健全、縁結びの御利益があります。

「平家物語」で有名な那須与一も祈願した事から「必勝祈願の御利益」があると、受験生に人気です。

今年受験生と来年受験生の神頼み
那須温泉神社

【那須与一と那須温泉神社の補足】

「平家物語」の讃岐屋島(香川県)での合戦で、平家が「この扇を射抜いてみよ」と挑発したことに対し、源氏側の那須与一が見事にこれを射抜いたというお話。
弓を射る時に『南無八幡大菩薩、別しては吾が国の神明、日光権現宇都宮、那須温泉大明神、願わくはあの扇の真中射させてたばえ給え・・・』と祈りました。

那須与一という人物は那須(現在の大田原付近)に住んでいたことから、名前が「那須さん」でした。つまり『那須に住んでいる与一さん』という事。
この与一さんが出陣前、この神社で戦勝祈願を行い、帰ってきてからもお礼として弓を奉納した神社なのです。

御神木の『生きる』
那須温泉神社の御神木『生きる』

推定樹齢800年のミズナラの御神木。その生命力や力強さから『生きる』と名づけられています。
残念ながら触ることはできませんが、近寄るだけでもパワーをもらえそうですね。

那須温泉神社の隣には、白面金毛九尾(はくめんきんもうきゅうび)をお祀りしている稲荷神社
那須温泉神社の隣は稲荷神社

那須温泉神社ご拝殿の横に小さくあるので素通りする方が多かったけれど、白面金毛九尾のこととかを知っていれば参拝するのかも。

殺生石(せっしょうせき)

那須温泉神社から殺生石までは歩いて5分くらい
那須温泉神社から殺生石

那須温泉神社から殺生石

雪に覆われた殺生石。殺伐とした感じはありませんねぇ。雪がない時は地獄のようなのでしょうか。
那須の殺生石

那須の殺生石

殺生石の由来

那須の殺生石

昔、中国やインドで美しい女性に化けて悪行を重ねていた白面金毛九尾(はくめんきんもうきゅうび)の狐が今から800年程前日本に渡来しました。九尾の狐は、「玉藻の前(たまものまえ)」と名乗って朝廷に仕え、日本国を亡ぼそうとしていました。
しかし、陰陽師(おんみょうじ)阿部泰成(あべのやすなり=安倍泰成)に正体を見破られると、九尾の狐は那須野が原まで逃げてきました。
ここでも九尾の狐は悪さを繰り返していたので、朝廷は三浦介(みうらのすけ)、上総介(かずさのすけ)の両名に命じ遂に九尾の狐を退治しました。すると、九尾の狐の姿は毒石になり毒気を放ち始め、近づく人や獣を殺し続けました。
これを伝え聞いた泉渓寺(せんけいじ)の源翁和尚(げんのうおしょう)が毒石に向かって大乗経(だいじょうきょう)をあげ続けると、一筋の白煙とともに玉藻の前の姿が現れ、石は三つに割れて飛び散り、一つがここに残りました。
それ以来、人々はその石を殺生石と呼ぶようになり、今に伝えられています。

那須町

※立て看板の文字を引用

3つに割れた石の1つは会津へ、もう1つは備後へと飛んで行き、この地に残ったとされる3つ目の石「殺生石」がこれ
那須の殺生石

大きさは1〜2mくらいかな?周りの石に比べて明らかに大きいです。こんなのが飛んできたら凶器だね。

ここで家族写真を撮ろうとしたら「撮ってあげますよ~」とスマートに声を掛けてくれたイケメンが!
顔もカッコいいけど、さらっと声をかけてくるあたりがメチャメチャスマートでカッコよかった。
惚れてまうやろ・・・(彼女連れてたけど)
那須の殺生石

あんな風になりたいって思った瞬間でした。

教傳地蔵(きょうでんじぞう)の伝説

この地に伝わる もう1つの伝説があります。
教傳地獄の由来

第九十六代後醍醐天皇の在位の頃(1318~1339)、奥州白河在の五箇村に蓮華寺という寺があり「教傅(伝)」という小坊主がおりました。この教傅は生まれながらの悪童で、心配した母がこの寺に預かってもらうことにしました。

その教傅も28歳になって、前の住職の跡を継ぎ、母と一緒に寺に住むようになりましたが、その行いは少しも直りませんでした。

延元元年(1336)のことです。教傅は2~3人の友人と一緒に、那須温泉に湯治に行くことになりました。
その日のことです。母が用意した朝食を、教傅はまだ旅支度も出来ていないのにと悪口を言いながら蹴飛ばして、そのまま出発してしまいました。

那須温泉に着いた教傅達は、殺生石を見学しようと賽の河原付近まで行くと、今まで晴れわたっていた空が、にわかに掻き曇り、雷鳴が天地を揺るがし、大地から火炎熱湯が噴き出しました。連れの友人は一斉に逃げ去りましたが、教傅は一歩も動くことが出来ませんでした。
友人が振り向いて見ると「おれは、母の用意したお膳を足蹴りにした天罰を受け、火の海の地獄に堕ちて行く」と、大声をあげ苦しみもがいております。友人が駆け寄り助けようと引き出しましたが、教傅の腰から下は炭のように焼けただれており、息を引き取ってしまいました。
それからも教傅の引き込まれたところには泥流がブツブツと沸いていましたが、いつしか山津波に埋まってしまいました。

その後、湯本温泉の有志が享保5年(1720)に地蔵を建立して供養を行いましたが、親不孝の戒めとして、参拝する者が後を断たなかったということです。

なお、現在の地蔵は、昭和57年に建立されたものです。

那須町観光商工課(一社)那須町観光協会

※立て看板の文字を引用

平安を祈って、とても大きな御手をしているのが特徴の千体地蔵群
教傳地獄

この中に一際大きな地蔵『教傳地蔵(きょうでんじぞう)』がいるんだけど、写真取り忘れ…
千体地蔵の数は奉納により年々増えています。1体35,000円ほどだそうで、現在は800体以上になっています。
この800体以上を石工・櫛田豊氏お1人で30年以上かけて彫られました。
凄いですよね!

殺生石はそれほど広くはないけれど、那須温泉の誕生の秘密や歴史がここにはあります。那須観光の寄り道におすすめですよ!
那須の殺生石

【殺生石観光の注意点!】

殺生石付近は硫化水素ガスや亜硫酸ガスが発生していますが、硫化水素ガスは酸素より比重が重いので、地表近くに多く存在します。
小さなお子様やワンコ連れの場合は、抱きかかえての散策がいいかも。

ちなみに、温泉に行くと ” 卵の腐ったような独特の匂い ” を「温泉の硫黄の匂い」なんて言ったりしますが、実は硫黄自体はそんなに匂いません。匂うのは硫化水素ガスが発生するからです。